結納の歴史
結納の語源は「結いもの」や「云納(いい入れ)」などの婚姻を申し込む言葉が転じた言葉と言われています。「結」の字は、「糸」へんに「吉」と書きますね。「吉」の字は、上に神事の刃物を置き、下に置いた器から成り立っていて「祈りが叶う、優れている、めでたい」などの意味をもっています。吉に糸を添えた「結」は、祈りを糸でつなげる「つなぐ、約束する、固める」という意味に繋がっています。
日本ではその漢字の意味からも「結い」という言葉は、農村社会に古くからある慣行で、農作業の労働力を対等に交換しあって田植え、稲刈りなど農の営みや住居など生活の営みを維持していくために共同作業をおこなうことを示す言葉としての意味が古くから根付いています。個々の家族より生活を共同で営む集団としての結びつきが強い意味があります。
結納は、平安時代は家が明確だった貴族を中心に行われ、室町時代には武家礼法の諸流派によって武家の婚礼制度として確立していました。それが江戸時代なって裕福な商家では結納・結婚式の行事が行われてきました。現代の結納の形式に近くなったきたのは、明治以降に「家族制度」が広まることから、一般の家庭にも普及していきました。
また、古事記でオオクニヌシがセスリヒメと婚約するときに、セスリヒメが歌った「・・・宇伎由比(ウキユヒ)為て、宇那賀気理弖(うながけりて)、・・・」という言葉の庶民にも伝わりやすい文字へと置き換わり、「・・・盞うき結ゆひして、項懸うながけりて・・・」(※意味は、酒盃さかずきを取とり交かわして、手てを懸かけ合あつて、)と二人の婚約を誓った「盞結」という言葉にもつながってきます。この「盞結」は、神社挙式のときの「三三九度」に見られる夫婦がお酒の盃を交わし婚約を誓約する由来にもなっています。
万葉集や各地の風土記にも「歌垣」という、春秋に村々の男女が酒や食べ物をもって山に登り、歌い踊り遊び、男が女に「娉(つまどい)の財」を贈り、女がそれを受けとってくれれば求婚を受け入れて性を解放したりする風習がみられたそうです。
では「結納」とは、結納は、結婚する両家が行う婚約の儀式です。結納の起源は、日本書紀の仁徳天皇の皇太子(後の履中天皇)が羽田矢代宿禰の娘、黒媛を妃とされた時に納菜が贈られたことと言われています。その後、結納は「家」を中心にした婚礼儀式として認知されるようになっています。
西暦700年頃、日本では、中国の唐の規律にならった大宝律令や養老律令が制定され、婚姻に関する決まりも普及されるようになります。婚姻に関しては中国の六礼「昏礼(結婚)に六つがあり、五礼には鴈(がん)【仲人】を用いる。五礼は、納采(申込み)、問名(母の氏を聞く)、納吉(占い)、請期(吉日)、親迎(出迎え)がこれである。ただ、納徴(結納)は鴈を用いない」とあり、この六礼にある納徴(結納)は、男の家から女の家に贈り物をして婚約成立の証しという文化が、日本でも婚姻文化として取り入れられて、現在に続く仲介人、結納の考え方の起源ともいわれています。
また、余談ですが、古事記に書かれている神話のひとつのエピソードに、「アマテラスの孫にあたる神で、邇邇芸命(ニニギノミコト)が、木花佐久夜毘売(サクヤヒメ)に求婚をしたときに、親となる大山津見神(オオヤマヅミ神)の元へ使者を派遣して、その旨を伝えると、大山津見神(オオヤマヅミ神)はとても喜んで、木花佐久夜毘売(サクヤヒメ)に姉の石長比売(イワナガヒメ)を添え、百取の机代の物(=沢山の品)を持たせて、差し出しました。」という話があります。
結納の内容は、時代や地域によっても異なり、女性が男性の家へ嫁入りして苗字を変える場合は男性側から女性側へ結納金や結納品を贈る形式や、男性が婿入りして苗字を変える場合は女性側が贈る形式や、さまざまに変化をしているそうです。
現代の結納では、贈りのものはなく顔合わせと食事会だけといケースも増えてきています。古くからの儀式としての結納でも、沿った時代に合わせた結納でも、婚約を夫婦二人で改めて誓い合う場として、料理やお酒の席を楽しむ席になればと思います。
顔合わせの歴史
顔合わせは、主に江戸中期頃、婚姻においてお見合いや仲人により、両家の親族に交流がないような場合、結婚に両家がお互いに挨拶をし、親睦を深めることを目的として行われるものですが、現代のような顔合わせは、大正や昭和あたりから多くなったと言われています。江戸時代ごろまでの農村では近隣の村内での婚姻などが多く、共同体として農作業などに従事して顔見知りの場合多いことなど、顔合わせというのは少なかったのではないかと言われています。
現代は、結納に合わせて顔合わせをしたり、結納を行わず、顔合わせの食事会のみ行うこうなど、内容も柔軟に変化しているようです。